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「自撮り衛星」出現

リーマンサットプロジェクト 民間有志による趣味の宇宙開発団体。

https://www.rymansat.com/ 

本日の日本経済新聞(夕刊)より「自撮り」×「宇宙ビジネス」の話題

この記事によれば、地球をバックに自撮り棒を伸ばし、自撮りをするために宇宙へ行く衛星とのこと。究極の自撮りです

その動きを想像すると、何か楽しくなってきます。「はやぶさ君」以来衛星を擬人化してしまうのは、日本人ならではでしょうか。

イノベーションは新しい組み合わせです。宇宙開発を民間でできないか?からスタートして、趣味といいながらここまで来ましたとは、すばらしいですね。要は、何でもできるということです。

さて、 自撮り ✕「 ? 」で、何か面白いアイディアありませんか? 

私なら、自撮り✕マネジメントでしょうか。

田中信彦「茶話会」やります

田中信彦「茶話会」開催

 

第1回 中国の社会を管理するしくみの今後

    2021年 3月4日(木)17:00-18:30(終了しました)

第2回 中国の餃子とシウマイ、肉まんなどについて

   2021年4月22日(木)17:00-18:30(定員締切となりました)

第3回 中国の自動車はどうなると思いますか?

   2021年6月24日(木)17:00-18:30 <終了しました>

参加方法 ZOOM会議形式 本ページ下欄にて申込受付

参加費  無料

< 田中信彦より 開催メッセージ >

こんにちは

中国に自在に行くこともままならず、すっかり腰が重くなってしまった田中信彦です。

何もしないのも面白くないので、最近Zoomを中心にvideoミーティングが定着してきたこともあり、気軽に中国の話でもする機会を作れないかと思いました。

とりあえず、数人からのレベルで茶話会のようなものを始めようと思います。最近の話題を何か選んで田中の方から簡単にお話をして、あとはフリートークで、出入りも自由、みたいな感じでやれたらと思います。

ご参加対象は、BHCCのメンバーと面識ある方を中心に「田中のことを知っていて、何がしかのものを読んだことがある」という範囲を考えています。

第1回は「中国で民草を管理するしくみ」みたいな観点から、最近感じていることをお話します。2回目以降はこんな感じでいますが、変えるかもしれません。スケジュールは以下の通りですが、お時間がありましたらお付き合いください。

・やってみないとわからないので、突然趣旨が変わったり、やめたりするかもしれません。その際はどうかご寛恕をお願いします。

(以降のテーマは随時掲載します。ご提案歓迎。)

 

「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」(JILPT)

人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」結果が発表された。「従業員100名未満の企業において、この1年間でOFF-JT研修を実施した企業は、全体の3分の1程度である」とのこと。

環境変化にスピーディーに対応するには、内部の資源に頼らず、外部の資源を活用することが得策である。内部資源が不足しがちな中小企業において、その手段の一つであるOFF-JTの利用率がこの程度でよいのだろうか。

なぜだろう。OFF-JTの有効性が低いからだろうか?OFF-JTの内容がだめなのかもしれない。しかし、調査結果を見ると「OFF-JTにそれなりに効果がある」と企業は認めている。であるならば、実施する予算や時間の捻出が難しいのか・・・スッキリしない。

現下の経営環境では、未来を切り開く情報や技術を内部の努力だけで獲得することは難しいのではないだろうか。

もちろん、外部資源を活用し内部に導入する方法は、OFF-JTや自己啓発などに限ることなく、M&Aや業務委託などの手段もある。周辺業務ならそのような手段もあるが、一番大切な自社のコア部分に関してはそうもいかないのではないか。OJTにあっても「指導する人がいない」とのことで実施に課題があるとの結果が出ている。これでは内部を磨き上げるための方策に手詰まってしまう。

このような調査結果の傾向は、この30年は変わっていないように思う。

そもそもOJT,OFF-JT、自己啓発というくくり方自体が、実態に合っていないのではないだろうか。現実を見定める視点の再考が求められる。

程よく上司をディスタンス

今朝、新聞に第一生命保険「サラリーマン川柳」2020年入選句が載っていました。(※1)

 「 コロナ禍が 程よく上司を ディスタンス 」 

なるほど秀作です。

これはコロナ禍におけるコミュニケーションのあり方はもちろん、部下の仕事のプロセスに上司がどう関わるかについての問いかけでもあります。

今までどれくらい「密」だったのでしょうか。また、これは心理的距離、物理的距離のどちらでしょうか。

今まで上司は、部下の数も増え育成に手がまわらず、業績を上げるにはさらなる努力を部下に投入してもらいたい、もっと部下関わらなきゃいけない、と思っていた人が多いはずです。

「1On1」など、私とあなたの秘密の場で心理的距離を縮めながら、指導したい上司に対して熱苦しいと感じていた部下もいたかもしれません。

毎月の部会、毎週のグループ会、毎朝のチームミーティング・・・直接、顔を合わせる場が今までたくさんありました。オンライン化されても物理的な時間、回数はあまり減っていません。それどころか、部下の仕事のプロセスが見えないとのマネジャーの不満も多く聞かれます。

手を変え品を変え「密」になろうとする上司に対して、部下も自分の仕事に集中する時間がどんどんなくなります。しかも、対面オンラインでなく、スラックなどITツールでバンバンやって来ますので対応だけで疲れます。また、職場が家庭に突然侵入してきたので境界が曖昧になっています。当然、距離をとって欲しいとの意見は出てくるでしょう。

他方、「密」を回避する別の動きも最近あります。

それは「疎」を放置で実現するというのではありません。目標を達成するのはあなたの責任だから、仕事のプロセスは上司は関知しませんよ、さっさとやってね的な、人ベースから仕事ベースの組織運営を明確にしたアプローチをする人材コンサルが最近押し出しを強くしています。

これは「結果による管理を自律的に」という、いわゆる本来のMBOに近いのメッセージなのですが、同時に、責任と権限、使える資源を部下に明確にしてあげましょうね、と強く指し示すことがミソになっています。つまり、事前に職務、責任割りをしっかりすることで、その後の遂行プロセスは上司は感知しません、部下は自由にやっていいですよという「疎」の実現です。

他方、このしくみは上司である幹部や経営に意識改革を迫ります。つまり、日々のオペレーションの中で仕事を思いつく度に部下に仕事をお願いするのではなく、事前にもっと考えておけよ、そうでないと、あなたが本来役割としている仕事もできないでしょ、というよりそれができていいんじゃない?という気づきを与えます。

これは、部下じゃなくてあなた自身は本来何をやるの?に引き戻す。つまり、人起点ではなく仕事起点の組織運営に引き戻すことを狙っています。なので一部のベンチャー、中小企業の経営者にこのアプローチはウケるのでしょう。なぜなら、そもそも人と人の間に、たくさんの抜けがあってやるべき仕事がボロボロ落ちている組織では、まずは職務の網羅性を高めることが効果的です。

そもそもこれは組織論の基本である組織のヨコの調整・分業です。これができていないと1On1で追加的指示を行うことになり、メンバーがオーバーワークで疲弊するだけです。また、組織のタテの関係である権限や責任についても事前に明確化することで、タテの調整コストを低減させることができます。

どうせ、限られた資源で荒っぽい組織運営をしなければならないのだから「割り切り=重点化」を行い、その中で責任を負わせることは合理的な考え方と言えるでしょう。

ただ、これをいわゆる成熟した大手企業がやるとどうなるでしょうか。コンセプトの導入、適応には精密な議論が必要でしょう。

さて、「密」or「疎」?

組織のメンバーである部下の立場において完全に「疎」はないでしょう。

事前に結果を目標に定めて任せる「事前・密」か、プロセスや計画をコントロールして成果を高める「プロセス・密」かの違いはありますが、密はどこかで必要になります。

でも、これは2分法では決められません。それを決めるであろう立場・主体者も、会社単位(=人事部の制度的決定)なのかチーム単位(マネジャーの現実的決定)なのかも決めにくいところです。マネジメントのシステムを決定は、何を目的にするのかによって基準が異なることろがやっかいなところです。

コロナ禍もかれこれ1年。

テレワークが常態化しつつある現在、せっかくだからたまにはゆっくりさせてよ、では済まなくなって来ました。そろそろ組織運営のそのものについて、企業内で本質的な議論が必要でしょう。

その際、50歳以上の人事経験者であればご理解いただけると思いますが、どうぞ「ジョブ型雇用」などカタカナを振りかざした素人議論でお茶を濁さないでください(※2)。心よりお祈りします。

※1 日本経済新聞(21年1月28日朝刊)より

※2 現在日本の人事では「ジョブ型雇用」という怪しい言説がまかり通っています。これは米国の職務給の一面を見繕ったものですが、米国職務給の成立前提条件と日本のそれは大きく異なります。なのでコンセプトの適応には精密なの議論が必要なはずですが、全くそれがなされておりません。これは、前職先輩でもある海老原嗣生さんがメディアでジョブ型雇用について連日文句を発信しています。ご興味あれば調べて見てください。

高橋伸夫『コア・テキスト経営学入門(第2版)』

新サイトオープンを機に、この書から「新・積読」を再開したいと思う。

経営学入門の本を書店に探しに来た人で、棚からこの本を選ぶ人は少ないはずだ。なぜなら、教科書っぽくない章立てでわかりにくく、ノウハウ感が無いからだ。

だが、この本にはとんでもない仕掛けのある恐ろしい入門書である。2007年初版本は購入したもののざっと見て放置していた。最近、じっくり読んでみたのだが、読み進めてびっくり!最後の「付録」にこの本の種明かしが書いてあった。

この本は、組織論の古典:バーナード『経営者の役割』と同じ章立てで内容が構成されている。それに加え現代的な話題を別立てし、「課題」として本文に挿入している。

本書の内容はもちろん確実だが、最初から最後まで高橋先生のメッセージが込められている熱い書である。少しかっこ良すぎである。

バーナードの『経営者の役割』は、組織論を学ぶ者には古典中の古典であり、必須の書だ。やや難解なところもあり、本当に読んでいる人は僕らの周りでも少ないだろう。

以前、リンクアンドモチベーションの小笹さんが「経営者の役割」を社員全員に読ませているとの記事を読んだことがある。人事、経営に携わる人に読むべきだとの気持ちはよくわかる。組織を運営することを経営とするなら、まさに経営入門の書としてバーナードの書はふさわしい。でも完読するにはややまわりくどい。

それに比べて、本書は身近でわかりやすい。しかも、昨年11月に第2版が出版された。すぐに私も購入したが、新版と旧版と比較をしながら、うーん、なるほどな・・・とややマニアックな読み方をしている。

そもそも「・・・入門」という本を書ける人も少ないが、版を重ねられる人、著作はもっと少ない。経営学の某先生がいつかこの本を超える本を書いてみたいと言っていた伊丹/加護野『ゼミナール経営学入門』は一世を風靡した経営入門の金字塔で現在第3版。これも実務家には意外にもわかりにくいと言われる本だが、ボロボロになるまで読んでいる人も多い名著である。

★★★★★

高橋伸夫(2020)『コア・テキスト経営学入門(第2版)』新世社

歳月不待人

今年はコロナ禍で遠くへ行けない。大晦日。ぼんやりしてると、子供の頃、毎年帰省していた群馬・桐生の祖母の家を思い出した。

祖母の家の門をくぐる。靴の揃えてある玄関から家にあがると両親は新年の口上を述る。畳に手をつき、深々とお辞儀を行う。この場面でしか見ることのできない姿である。後ろにいる小学生の私は中途半端な礼をして、いつも恥ずかしさをごまかしていた。

挨拶を終えるとこたつに誘われ、祖母は「はいとう(はいどうぞ)」とミカンが出される。まだ雰囲気になれない私は、無言でお年玉を待つ。

私の目線の先には漆喰の壁に掲げた「歳月不待人」がある。

それは叔父の亮が高等学校の時に書いたもだと後に聞いた、祖母の家のここにあたりまえのようにずっとある

時は待ってくれない、だよねと私はずっと思っていた。でも、本当にそれだけなのだろうか?こたつに訪れた多くの人もこの壁を見ていたはずだが、私の前でこの書が話題になったことはない。

机の上の冷めたコーヒーを持ちながら不思議に思う。別に光陰矢の如しでもいいし、なんか月並みすぎて野暮ったい。書道展で優勝した話も聞いたことはないし、額に入れてまで飾る必要はあっただろうか?

早速、ネットで調べた。出典は、陶淵明 雑詩十二首(其の一)である。この一文の意味は確かにそのとおり。しかし、全文の感触は私の想像とは異なっていた。

歳月は人を待たずというだろう。遊んでばかりいないで勉強しなさい」という例文は、本来の意味からは当てはまらないことが、その時はじめてわかった。

(→例えば、http://kotowaza-kanyouku.com/saigetsuhitowomatazu

正月の閑散とした市立図書館。いつもは立ち入らいない棚のところへ行き、陶淵明を調べてみた。

  『雑詩十二首(其の一)』

  人生無根蔕  人生 根蔕なく
  飄如陌上塵  飄として陌上の塵の如し
  分散逐風轉  分散し風をしたがいて転ず
  此已非常身  これすでに常の身に非ず
  落地爲兄弟  地に落ちては兄弟と為る
  何必骨肉親  何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
  得歡當作樂  歓を得てはまさに楽しみを作すべし
  斗酒聚比鄰  斗酒 比鄰を聚めよ
  盛年不重來  盛年は重ねては来たらず
  一日難再晨  一日 再びはあしたなりがたし
  及時當勉勵  時に及びてまさに勉励すべし
  歳月不待人  歳月 人を待たず

(義解)人生は、これを木にたとえれば幹に根があり、花ふさにへたがあってしっかりとめておいてくれるようなものではない。パッと飛んでしまうこと路上の塵や埃のようなものだ。風のままに分かれて転がりゆくこの体は常住普遍のものではないのだ。我々人間同士は、地上に生まれ落ちるやお互いに兄弟となっている。骨肉の縁続きの者だけが親しいものと決まったわけではない。だから、一斗の酒をもってあたり近所のものを寄せ集めて、おもしろいときには寄り合って楽しみをなすべきだ。盛の若い年は二度とこぬ。一日に二度の朝がくることはない。折につけ、せいぜい遊ぶべきだ。年月が過ぎゆかず、私を立ち止まって待っていてくれることはない。

なるほど。やっぱり、そうだよね。

明治生まれの祖母は、女学校を卒業した後、家を出て結婚した。しかし、早くに夫(私の祖父)を亡くした。四人の子供(私の母は長女である)を一人で育てるも、いわゆる母子家庭で苦労があったと母から聞いている。

この詩を書した青年、祖母の子供・長男である叔父にとっても父親の記憶はほとんど無かったにちがいない。

叔父は、後に勤めた銀行で、実績を上げ続けたエース的存在だったらしい。NYへ行ったり本部へ異動するなど、将来を嘱望されていたが40代半ばで病に倒れた。

予備校で行きなれた駅の川向こう、暗くコンクリートの病院へ転院した頃には本人の意識はすでに無かった。しばらく入院していたが、そこで祖母は我が子も病で見送ることになった。

私がサラリーマンとしての栄達や人事に興味を持ったのは、叔父の影響である。人事部時代の臨店の話や、誰を支店長にするのかなど人事の話を、こたつで大人に交じって聞いていたからだ。

高校生の叔父はどんな気持ちで筆を持ったのだろう。今となってはその想いを知ることはできない。

夫と長男を早くになくした祖母。100歳を超えても壁に額を掲げ続けた祖母の気持ちも今では知ることはできない。

にぎやかだった祖母の家は主をなくし、数年前から更地になっている。

<参考>

・吉川幸次郎(1956)新潮叢書『陶淵明伝』新潮社(叔父も読んだであろう)

・鈴木虎雄訳註 (1991)『陶淵明詩解』東洋文庫(上記、義解参照)

・一海知義(1997)岩波新書『陶淵明-虚構の詩人』岩波書店(田園詩人とは異なる切り口、解説で面白かった)

※ 我が家にこたつはありませんが、あたたかく今年のお正月を迎えることができました。